2007年01月05日
【 歴史好き (38) 】
さて、徳川家康が野望虚しく、息子秀忠と共に
消滅した後を考える必要がある。
毛利一族と、上杉・佐竹連合の、新東西決戦と
なるんだろうか。
北陸には前田が居るし、九州には黒田如水が
虎視眈々と天下を狙う。
宇喜多は健在だし、信州の真田も自信をつけて
いるし、秀頼の周りには、改めて豊臣恩顧の
諸大名、福島、両加藤、浅野、などが結集する。
放っておけば、再び戦国時代、信長以前の状態
の再現となる。
そうはならないと見る
朝鮮の役は、朝鮮民族には気の毒だったが、あの
戦役を通じて、諸大名の間に「日本」という意識
が高まった。諸大名が「結束」する必要性を知った。
これが大きい。
秀吉の天下統一の下での、茶会や花見を通じて
仲もよくなった。今更殺し合いなんかしたくない。
まだ自己中のヤツは、皆で力を合わせて葬り去れば
よい。さしずめ伊達政宗あたりが、その対象になる
だろう。
「日本」を意識し、「結集」の必要を感じた諸侯
は現在のEUのような日本連合を目指すんじゃ
ないか。
象徴としての秀頼の存在には異存はなかろう。
ただし淀はダメ。所詮は秀吉の妾の一人としての
認識を求め、あくまでも秀頼の母上は北政所。
淀の我が侭が直らんときは成敗するしかない。
北から上杉、佐竹、蒲生、真田、前田、丹羽、細川、
福島、浅野、宇喜多、毛利、小早川、黒田、加藤、
長曽我部、立花、加藤、島津といったEUならぬJU
が出来上がる。
徳川とその家来たち、意を通じた伊達、最上、堀、
山内、藤堂、蜂須賀、中村、脇坂、池田などの
所領はすべて没収しJU諸侯に分かち与える。
平和な良い時代が、そのまま近代化していく。
明治維新も必要ないし、日清・日露の戦いも
起きない。当然満州事変も、日中戦争も無い。
ヨーロッパ諸国のアジア植民地かも、JUのパワー
の前で実行不能となるだろう。
代わりにアセアンがもっと早くに発足する。良いこと
づくめである。これがパパゲーノの初夢である。
パパゲーノ
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2006年12月26日
【 歴史好き (12) 】
関ヶ原の合戦では、多くの豊臣恩顧の大名が
徳川方についた。
福島正則や浅野幸長のように、ただ石田三成
憎しで、自らが豊臣家の一族であることも忘れ、
家康に加担した者は、まだ分かる。
池田輝政、黒田長政、細川忠興などは、別に
豊臣家に育てられたわけでもなく、時代の
流れを読んでの行動だから、これも分かる。
大勢順応の多くもまた分かる。
許せないのは、藤堂高虎と山内一豊で、ボクは
いずれ「輪廻転生」で、過去に生まれ変わり、
大阪城冬の陣に参戦するつもりなのだが、この
二人だけは絶対に討ち取ると決めている。
高虎は、まああんなヤツで、簡単に裏切る普通
の悪党。
問題にしたいのは山内一豊の方で、こやつは
織田家臣から、すんなりと豊臣家臣に横滑りし、
なんの軍功もなく、掛川6万石の城主にして
もらっていた。
小山評定で、福島正則のバカが、内府にお味方
と叫び、態勢が決まるのだが、次いで一豊めが、
掛川城を差し上げるとヌカシ、それに他の
大名連も追随して、家康は途上の兵站も宿舎も
手に入れた。
この城を差し上げるとの案は、一豊ごとき阿呆
にそんな知恵なんか浮かぶわけもなく、堀尾
一氏のアイデアを盗んだものとされている。
合戦の場では、前線にでることもなく、南宮山
で動かぬ毛利勢に備える位置にとどまって
いただけ。
こやつを主人公にした大河ドラマが放映中と
聞くが、ボクは強固な意志を持って「絶対に
みるもんか」を貫いている。
このバカは、戦後一躍土佐一国の太守となる。
24万石だから4倍増である。他の大名だったら、
見知らぬ土地に移動するのだから、地元の
長宗我部の旧臣たちを積極的に召抱え、
新領地の領民どもを早く馴染ませようとする
ところを、そこらのならず者を多数召抱え、
土佐に乗り込み、いろいろと汚い手を使って、
長宗我部侍たちを殺し、あげく山内侍を上士
とし、長宗我部侍は郷士とし、道で行き交えば
土下座させ、上士には切り捨て御免の権限まで
与えた。
260年を経て、関ヶ原のリベンジを西軍が
実行するのだが、山内は態勢が決まるまで
日和見どころか、藩内の勤皇郷士に圧迫を
加える。武市半兵太の切腹がその代表で、
幕末もっとも多くの犠牲者が出たのは土佐。
それも坂本竜馬・中岡慎太郎をはじめ
長宗我部侍たちである。
山内容堂は佐幕で通し、最後の最後で慌てて
官軍方に転じた。最も儲けたのが、岩崎弥太郎で
海援隊の持ち舟を手にし、海運から大財閥へと
のし上がる。岩崎は上士である。
国営放送も山内一豊ごときを主題にするな。
ヨメハンのゼニでええウマ買うたちゅうだけの
オトコやんか。
パパゲーノ
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2006年12月25日
【 歴史好き (11) 】
徳川家康が無理やり豊臣家を滅ぼして
根絶やしにし、じわじわと朝廷をいじめに
かかる。遂には禁中御法度の発布となる
のだが、朝廷をここまでないがしろにした
武家集団は、日本史の中で例を見ない。
例を見ないといえば、中国史と異なり、
日本の勝者は敗者の墓まで暴くことまでは
やらない。独り徳川だけが秀吉の墓まで
更地に変えた。秀吉はその生涯を通じ
家康を怖れ続け、ご機嫌取りに終始した。
朝廷に願い出て、家康の官位もどんどん
上げてやった。
秀吉とて織田家の遺児たちをないがしろに
し、自ら遺産を独り占めにしたのだから、
家康が秀吉の遺言を無視して秀頼から天下を
奪ったことは、さして非難には当らない。
しかし、言わば恩人ともいえる秀吉の墓
まで暴き遺骨一本も残さんという措置には、
同じ日本人として付いていく気になれないし、
ヒデぇやっちゃとしか思えない。
源氏を名乗って征夷大将軍に就いたのには、
大ウソがある。徳川が源氏のはずがない。
新田氏の傍流の中に、得川という家がある
のは事実。ここからの系譜と称しているの
だが、これは作り話。
第一、家康の生まれた家は松平で、その松平
は地名であり、三河の山奥の米なんか一粒も
取れない場所である。乞食同然の勧進坊主
として、この地に流れついた名もなき男の
後裔に過ぎない。
あの時代、明らかに源氏の血脈に繋がるのは、
関ケ原の後で常陸から秋田に飛ばされた
佐竹家で、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光
の系譜につながる、本物の源氏である。
パパゲーノ
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2006年12月23日
【 歴史好き (2) 】
信長をもって日本史上最高の英雄とするのが、
ボクの基本だが、その最たる理由は独創性にある。
あの時代、世界の先駆者であった西欧を凌ぐ
安土城を建てたことと、本願寺救援の毛利・
村上連合水軍を打破した大安宅船の建造とが、
その独創性を代表する。
大安宅舟は船体を火矢から護る鉄板で覆われて
いたが、当時そんな鉄板をつくる技術は無い。
装備された大砲の規模もまた、当時来日中の
宣教師を驚愕させたほどの巨大なものである。
さらに信長の恐るべき独創性は、茶器の類の
価値を高めたことにある。
信長は早くから地球儀を入手し、世界規模での
物の見方、考え方が身に備わっていた。
当然日本の土地面積の有限を知っており、鎌倉以来
の武将の土地へのこだわり「一所懸命」を前提
とした恩賞には限りがあることを見通しており、
土地に代わる有価値物として茶器類を重用した
のである。
滝川一益が、恩賞として頂いた茶器に感激し
「上野一国を賜るよりも有難し」と述べた事が
伝わっている。
信長ならではの、頭の冴えた手法である。
秀吉の後半は、ただの好色に過ぎた権力者に
とどまる。冴え渡る前半は、信長が残した設計図の
活用に過ぎない。
家康は、ただ徳川家の安定を願う小心者で、信長が
育んだ世界感覚を台無しにしてしまった。
徳川260年は停滞の260年であり、特に輸送に
からむ船舶・道路・橋梁・車両などの開発がすべて
ご破算になってしまった。
惜しむに余りある、馬鹿げた保守主義で、日本は
農業国からの脱皮を260年間待機させられた。
こんな奴は英雄でもなんでもない。
パパゲーノ
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2006年12月23日
【 歴史好き (1) 】
信長・秀吉・家康と並べて、誰が好きで誰が嫌いか
という設問を見る事がある。
信長が嫌いだという人が多いように思うのだが、
その理由として、比叡山の焼き討ちと伊勢長島の
一向一揆鎮圧の男女子供見境無しの虐殺を
挙げている。
信長こそが英雄であり改革者だと信ずるボクの意見
は当然異なる。
比叡山や一向宗徒を、現在の感覚で寺社とその
信者と見るから、非武装の宗教勢力になんと無残な
という批判が出てくるのであろう。
当時の寺社は、現在のような唯の宗教団体では
ない。比叡山などは僧兵という武装勢力を抱え、
京都中の日蓮宗の寺々を焼き払ったり、天台宗
同門の三井寺との武力抗争が絶えなかったり、
大名と変わりない。
一向衆徒も、宗祖親鸞のあずかり知らぬ、大組織を
蓮如が築き上げた武装組織で、顕如が本山とした
大坂本願寺は、明らかに城そのもであって、大名と
変わるところなき武装勢力である。
伊勢長島の場合、先に戦端を開いたのは一向宗の
方で、信長は弟を殺されている。
比叡山の場合は、多くの利権の本締めでもあった。
楽市楽座を目指す、市場開放論者の信長からみたら
頑固な利権・規制の徒とうつったことだろう。
ここらを見間違って、武士が僧侶をなぶり殺しにした
というのは、史実を知らぬ故に生じた誤解である。
パパゲーノ
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