2006年12月25日

【 歴史好き (11) 】


徳川家康が無理やり豊臣家を滅ぼして
根絶やしにし、じわじわと朝廷をいじめに
かかる。遂には禁中御法度の発布となる
のだが、朝廷をここまでないがしろにした
武家集団は、日本史の中で例を見ない。

例を見ないといえば、中国史と異なり、
日本の勝者は敗者の墓まで暴くことまでは
やらない。独り徳川だけが秀吉の墓まで
更地に変えた。秀吉はその生涯を通じ
家康を怖れ続け、ご機嫌取りに終始した。
朝廷に願い出て、家康の官位もどんどん
上げてやった。

秀吉とて織田家の遺児たちをないがしろに
し、自ら遺産を独り占めにしたのだから、
家康が秀吉の遺言を無視して秀頼から天下を
奪ったことは、さして非難には当らない。

しかし、言わば恩人ともいえる秀吉の墓
まで暴き遺骨一本も残さんという措置には、
同じ日本人として付いていく気になれないし、
ヒデぇやっちゃとしか思えない。

源氏を名乗って征夷大将軍に就いたのには、
大ウソがある。徳川が源氏のはずがない。

新田氏の傍流の中に、得川という家がある
のは事実。ここからの系譜と称しているの
だが、これは作り話。

第一、家康の生まれた家は松平で、その松平
は地名であり、三河の山奥の米なんか一粒も
取れない場所である。乞食同然の勧進坊主
として、この地に流れついた名もなき男の
後裔に過ぎない。

あの時代、明らかに源氏の血脈に繋がるのは、
関ケ原の後で常陸から秋田に飛ばされた
佐竹家で、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光
の系譜につながる、本物の源氏である。




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Posted by パパゲーノ at 16:23│Comments(0)歴史
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